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慶長20年(1615)、家康が京に入った。威容を誇った大坂城も、冬の和議以降、次々と堀を埋められ本丸を残すのみとなっていた。もはや野戦しかない。豊臣方は奈良街道・道明寺へと先鋒・後藤又兵衛隊を送り出す。と、霧の向こうに徳川の大軍が現れ、5月6日未明、開戦。孤立した又兵衛は討死、主力の木村重成・長宗我部盛親も戦死し、豊臣敗色は濃厚となる。そのとき幸村は、3000の兵で伊達政宗率いる1万余の軍勢を一蹴する。さらに翌7日、天王寺口の越前勢を毛利勝永とともに撹乱すると、幸村は茶臼山を駆け下って家康の本陣へ突進。寸でのところで逃したものの、家康に切腹を覚悟させたほどであった。その後、幸村は安居天神に退き、最期を遂げたという。同日夕刻、城に火の手があがり、徳川の勝利が決した。 |
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