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上田城をめぐる攻防は二度あった(図は第二次)。一度目は天正13年(1585)。小牧長久手の戦いに際して徳川家康は、真田の沼田領を渡すと北条に約す。これに反発した真田昌幸(幸村の父)は、上田城に籠った。攻め寄せる徳川軍7000に対し、真田はわずか2000。城正面に小勢を展開して敵を城内におびき寄せ、横曲輪から攻撃。神川まで追い詰めたところへ、対岸の砥石城から信幸(兄)軍が挟撃したのである。二度目は、慶長5年(1600)。徳川秀忠の軍勢38000が上田城に迫った。真田はまたも2500の寡兵で籠城。搦手口から大手口に徳川軍を引き込み、鉄砲・矢を雨と浴びせる。こうして秀忠を釘付けにし、関ヶ原への参戦を遅らせた。様々な奇策を弄しての戦いは、真田の知略を世に知らしめるものとなった。 |
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