

|
 |
 |
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
武田信玄の跡目を継いだ勝頼は、偉大な父の影を払拭すべく三河へ進撃、徳川方の長篠城に苛烈な攻撃を加えた。対する徳川家康は、織田信長と合流して設楽原に着陣。鶴翼の陣を布く武田軍と対峙する。天正3年(1575)某日早朝、戦場に陣太鼓が鳴り響き、決戦の火蓋が切って落とされた。武田騎馬軍団が猛進を開始するや、徳川軍は、敵後方の備えである鳶ヶ巣砦を奇襲する。退路をふさがれた武田軍を待ち構えていたのは、信長が密かに築いた馬防柵と鉄砲3千の三段撃ち。武田騎馬隊は突撃を阻まれ、銃弾を浴びて次々に倒れた。山県昌景や馬場美濃守らの奮戦も空しく惨敗、武田家滅亡は時間の問題となる。この戦いで、真田家は信綱・昌輝兄弟が戦死、昌幸(幸村の父)が継ぐことになった。 |
|
 |