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戦国武将列伝
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(投稿:M岡様より)
耳川合戦で大友家に勝利した島津家は、ついに九州制覇に乗り出した。島津家久率いる部隊は、佐伯の栂牟礼城攻略に失敗したが、北上を急ぎ、府内を目指す。 このとき北進する本隊の背後をつかれぬように、白浜重政、野村文綱に兵2千を任せ、臼杵城を攻略するよう命じた。
臼杵城(丹生島城)は海に浮かぶ島城である。城の規模はさほど大きくはないが、攻め込むことは容易ではない。島津の先陣はやや離れた兎居島まで詰め寄ったものの、大樹や岩陰に隠れてすぐに攻撃を仕掛けてくることはなかった。
大手門。かつて海だったとところに、江戸時代に三の丸
が作られ、二の丸との間に堀と門が設けられた。
二の丸入り口・大手門付近の石垣か。
畳櫓。大手門海側に設けられた櫓。
卯寅口門脇櫓。本丸の下の
海からの入り口を守る。
「国崩し」と呼ばれたフランキ砲
(模型)と砲台跡。二の丸。
これを見てとった大友宗麟は、信仰篤い宗徒から一転して、かつての猛々しい戦国武将となって蘇った。 城方には戦闘のできる武将・兵数も少ない。機先を制して島津勢の度肝を抜くのだ。そう考え、武宮親実に「国崩し」の発砲を命じる。この砲音たるや、味方も敵も今までに聞いたことのない大轟音。砲弾は大樹を倒し岩を砕き、島津方の人馬に多数の被害を出した。 島津勢が恐れおののいたところへ、臼杵鎮尚親子、柴田礼能親子(平清水口)、吉岡甚吉、利光彦兵衛、吉田一祐(仁王座方面)らが急襲をかける。白兵戦を演じ、島津勢に大打撃を与えたのである。島津はその後、津久見を水軍で固める動きを見せるが、これも大友の水軍により撃破され、臼杵城攻略を断念、撤退した。
(投稿:尾張の桜子様より)
加藤清正が慶長12年に築城した、堅固なつくりの平山城。
東高西低の茶臼山の自然地形を最大限に生かし、茶臼山全体を要塞化している。 最も注目されるのは、「扇の勾配」「武者返し」と呼ばれる石垣の見事さで、「清正公石垣」とも言われている。 加藤氏の後に領主となった細川氏もこの城をほとんどそのまま利用した。 明治になり、熊本鎮台が設置されてもその偉容を保っていたが、明治10年に西南戦争が起こり、建物の大半は焼失した。 なお、石垣、櫓の一部は当時のままの状態で残っている。
高さ32mの大天守は、三層六階地下一階で、それぞれの階に鉄砲方詰所、具足方詰所などがある。 小天守は高さ19mで、景観を重視して大天守より西側にずらして設置されている。「御上」として夫人のために築かれたもの。
熊本城の石垣は清正が築いたもの。
裾の辺りは扇の様に勾配が緩やかだが、石垣の八合目あたりからは反り返ってほとんど垂直になり、登ることができない。 そのため「武者返し」などと呼ばれている。
櫓は、武器、武具などの倉庫であり、また戦時には兵を駐屯させる目的もあった。 築城当時、大小天守を含めて49あった櫓だが、ほとんどは西南戦争で消失。 現在でも残っている宇土櫓などのすべてが国の重要文化財に指定されている。
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。
秀吉死後は石田三成と対立、関ヶ原合戦で東軍に属し、肥後熊本52万石を得た。
ゲーム序盤から登場。大友家に従属している阿蘇家が支配している。時代背景から、加藤清正が築城する以前の「隈本城」となる。 まだ茶臼山の一角にある、比較的簡素な城。
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