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永正元年、築城された平城。弓馬の名家・小笠原家の繁栄の後、武田信玄が信濃支配の拠点とした。その後も、城主の入れ代わりが激しく、変転の歴史をたどる。
堀を渡って太鼓門をくぐり、再び堀を渡って今度は黒門をくぐると、本丸。天守 がぐっと迫ってくる。五層六階の大天守に、乾(北)に三階の小天守が渡櫓で連 なり、巽(東)に付櫓、月見櫓と続く、連結複合型の堂々たるものである。傍ら には、小笠原長時ゆかりの白牡丹が植えられている。武田に攻められたとき、兵 馬に蹂躙されるのを憂えて、寺に託してあったものという。


 




水堀は美しく光り、堅牢な石垣が防御力を高めている。本丸の入り口を守るは、豪壮な矢倉門。要所に配置された大矢倉が、曲輪に迫る敵軍を容赦なく射すくめる。壮麗な天守は高度な日本/南蛮双方の文化を連想させる。
風林火山の旗を翻し、戦場を駆ける。
驍将の誉れ高い甲斐の虎、武田晴信。



   

 
別名「鶴ヶ城」。南北朝末期、至徳元年、蘆名直盛が築城。天正17年、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼして入城した。
秀吉が奥州仕置きで没収、代わって蒲生氏郷が入封、名を若松城と改めた。42万石という奥州最大の城となる。
文禄2年、七層の大天守が完成。氏郷の没後、子の秀行は宇都宮に移され、上杉景勝が入城する。関が原合戦後、景勝は減封されて米沢へ移り、蒲生秀行が戻った。その3代後、伊予の加藤氏の時、五層の天守閣に作り直された。
さらに、保科、松平と代わり、やがて白虎隊の悲劇の舞台となる。


 





小高い丘の上にそびえる天守閣は、四層白天守。素朴なようで実は堅牢な本丸だ。二の丸が画面の端に確認できるが、三の丸は見えない。複雑な構造で敵を欺く造りになっているようだ。矢倉は最高の小天守に発展している。
黒の具足で身を固め、雪原に舞う。
鬼才を発揮し、奥州に覇を唱えた。



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