10月26日 マルセイユの酒場にて――

僕は街に着くなり、微笑まずにはいられなかった。
街中がワインの香りに満ち溢れている。
月並みな表現だが、その芳醇な香り。

僕は行く先々で、貴族の晩餐会などに楽士として招かれることが
少なくない。有力者とつながりを持つことは、職業上悪くないこと
なので異存はないが、どうもあの「全てが作り物のような夢うつつの
空間」が苦手だ。生きている実感が湧かない。
嘘っぽい感覚に囚われる。
あの空間で僕を一番居心地悪く感じさせるもの。
それがいわゆる「高価なワイン」の香りだろう。

今のマルセイユにはそういったものは一切ない。
拙い演奏と拙いステップだけど、魂の躍動に身を任せて歌い踊る者。
飲みすぎて酔っ払い、騒ぐ者。
そして、人々の気持ちがこめられた、出来たてのワイン。
格調高く品があるものではなく、もっと親しみやすく、
生命力に満ち溢れている。
それが本来の祝い事にあるべき姿ではないだろうかと、僕は思う。
僕は少しの間街を歩いていた。祭りを楽しむ人たちに声をかけながら、
まだ、肝心のワインを堪能していないことにやっと気付いた。

そろそろ酒場に向かおうかと思ったそのとき、酒場の前から「しゃくにさわるねぇ!」と大声が聞こえた。まあ、酔っているんだろう。気にしないことにした。
立て付けの悪い重たい扉を開けると、中は既に最高潮の状態だった。マスターもイレーヌも大忙し。僕は彼らの邪魔にならないように、カウンターのちょっと奥に座った。
頼んだワインをイレーヌが持ってきてくれたときに、ほんの少しだけ彼女と話す時間がやってきた。
「やあイレーヌ。…今年は、またすごい大賑わいだね。君と語り合いながらフランスのワインを心ゆくまで口にできるなんて…。ああ、なんて贅沢なんだ」
「きーーーっ! なんてキザな野郎なんだ。あたしはああいう歯が浮く言葉がだいっきらいなんだ! …全く、どんなツラ下げて口説いてるんだか…。そのお顔を拝ませてもらおうじゃないか」



その言葉遣いは、母の面影を彷彿とさせた。珍しく僕はくだらない感傷に心を沈めてしまいそうになる。よろしくない。
そんなきっかけで僕は彼女――ソーヌ川ほとりのワイン名産地出身であるポーリーヌさんと出会うことになった。彼女はワイン祭り恒例の「ワイン娘選考会」に応募するも、何度も落選を喫しているらしい。彼女は…、そう。力強く、暖かい。まるで大地のように心休まる存在かな。彼女の魅力はいつか認められると思うよ。
ポーリーヌさんは、知性には自信があるらしい。「智の美」といったところだろうか。
僕は彼女に興味を持った。知的な会話ができる女性は、話していて飽きない。僕が勝ったら彼女の故郷を教えてもらうということで、あるゲームをすることにした。
あるテーマにそった言葉を、自分の知識がつきるまでいいつづけるゲームだ。
二人で言い合っても楽しくもないので、そばにいた酒場の客にも声をかけ、一緒に参加してもらった。



彼女の知性はなかなかのものだ。彼女のいう「智の美」は賛美に値すると思う。参加してくれた方々の知識ももちろん劣らないけれど。
彼女とゲームに興じることができただけでも今年のワイン祭りは来たかいがあったというもの。彼女との再会を約束して、僕は酒場を後にした。

今年のマルセイユはひと騒動ありそうな、そんな予感がしていた。