真田(之)家 信繁の兄。徳川家臣・本多忠勝の娘を娶った縁から、関ヶ原合戦では父や弟と別れて東軍に属す。その後も徳川家に忠節を尽くし、真田家の存続に尽力した。 |
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真田(繁)家 日の本一の兵と称された名将。関ヶ原敗戦後、紀州九度山に蟄居。大坂の陣では「真田丸」と呼ばれる出城を築き、徳川軍を翻弄した。 |
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津軽家 三国志の関羽に憧れて髭を伸ばしており、「髭殿」と呼ばれた。機を計って主家・南部家から独立すると、17年かけて津軽を統一した。 |
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伊達家 幼いころ病で右目を失い、独眼竜と呼ばれた。片倉小十郎、伊達成実らと共に東北に勢力を広げ、天下への野望を燃やし続けた。 |
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上杉家 養父・謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。家臣が丸一日声を聞かなかった日もあるほど寡黙であったという。 |
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武田家 信玄の四男。当初は諏訪氏を継いだため、諏訪四郎と呼ばれた。家督の相続後、強硬策をもって領国を広げた勇将。 |
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徳川(秀)家 家康の三男。関ヶ原合戦の際、中山道からの進軍を真田昌幸に阻まれ、父の不興を買う。しかし、凡庸篤実な人柄を父に見込まれ、江戸幕府2代将軍となった。 |
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徳川家 織田信長との同盟、豊臣秀吉への従属を経て勢力拡大。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍に。その後、将軍職を子の秀忠に譲るが、大御所として実権を握った。 |
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大谷家 義に厚く、豊臣秀吉も一目置いた名将。関ヶ原合戦では、親友・石田三成のために病をおして奮戦、藤堂高虎の軍を撃退する。 |
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石田家 豊臣家・五奉行の1人。その手腕を「無双の才覚」と讃えられた。秀吉死後、西軍を指揮して徳川家康との関ヶ原合戦に臨んだ。 |
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織田家 天下布武(武力により天下を統一する)印の通り、戦国の覇者となる。明智光秀による本能寺の変により、炎の中に消えた。 |
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豊臣家 茶々。浅井長政と市の娘で、のち豊臣秀吉の側室となる。秀吉死後、子・秀頼を後見して豊臣政権を守り立て、徳川家康などと対した。 |
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吉川家 元春の三男。関ヶ原合戦で西軍の敗北を予想し、外交工作によって毛利家の存続をはかる。しかし宗家は防長2国に減封され、家中から裏切り者と非難された。 |
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宇喜多家 豊臣秀吉に寵愛され、若くして五大老となる。内乱で多くの重臣を失うが、関ヶ原合戦では西軍最大の兵力で奮戦する。 |
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毛利家 祖父・元就の死後、家督を継ぐ。中国地方における毛利家の勢力を拡大する。関ヶ原合戦では西軍の総大将を務めた。 |
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長宗我部家 元親の四男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易され、京で寺子屋を開く。のち大坂城に入り、藤堂高虎軍を壊滅させるなど活躍したが、大坂落城後、斬首された。 |
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藤堂家 幾多の名城を築いた当世一の築城名人。高石垣を用いた手法を得意とした。より力量ある者を見極め、主君を7度も変えた流浪の出世人。 |
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小早川家 金吾中納言。豊臣秀吉の命により小早川隆景の養子となる。関ヶ原合戦では東軍に寝返り、東軍勝利に大きく貢献した。 |
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黒田家 号は如水。豊臣秀吉の参謀として、その天下統一に大きく貢献した。秀吉は、自身の死後に天下を取るのは官兵衛だと評価し、恐れていたという。 |
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島津家 島津四兄弟の次男。島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。関ヶ原合戦では家康の本陣近くを敵中突破して「鬼島津」の名を高めた。 |