これを読んでおけば、イベントがより楽しめるかも!?
『潮騒(しおさい)の序曲』 (いい風だな ) 自転車のペダルを踏み込みながら、衛藤桐也は頬をなでる風の心地よさを感じていた。 キラキラと輝く日差し。 空は澄んだ青さに満たされていて、白い雲はうすく伸びて流れていっている。 吹く風はやさしく、呼吸をすると、とてもすがすがしい気持ちになれるほどだ。 まさに絶好のサイクリング日和といえるだろう。 (自転車をセレクトして、正解だった) こんな天気の休日は、部屋にこもってヴァイオリンの練習をするより、 外で何かしておいたほうが、断然、有意義な時間をすごせる。 ボディボードか、サイクリングか。 少し迷って、衛藤は愛用の自転車を選んだ。 先日、愛情をこめてメンテナンスをしたばかりだったので、 その走り具合を確認したかったのと、 ボディボードをするには風が足りないと思ったからだ。 気分よく自転車を走らせていると、 ふっ と風に乗って、ヴァイオリンの音色が聞えたような気がした。 衛藤の中で、興味がわく。 (外で弾くくらいだから、よっぽどの自信家か、目立ちたがり屋か 。 面白いじゃないか。どんなヤツなのか確かめてやる) 衛藤はヴァイオリンの音が聞こえる方向へ、自転車を走らせた。 ペダルをこぐたびに、ヴァイオリンの音が近づいてくる。 (ふぅん、プッチーニの『誰も寝てはならぬ』か) 曲目がわかる頃、海に面した場所にある臨海公園が見えてきた。 音を追いかけると、一人の少女がヴァイオリンを奏でている。 私服だから年齢はわからないが、高校生くらいだろうか。 やわらかな日差しと風とともにつむぎだされる音は、技術力がなく、稚拙なものに聞こえた。 いつもなら一笑して、そのまま自転車で走り去っただろう。 だが、なぜか不思議と、目が離せなかった。 自転車を止め、そのまま彼女がつむぐ音を聴いていると、ふっ と演奏がやんだ。 いつの間にか、少女はヴァイオリンの弓を下ろし、こちらへ視線を向けていた。 不思議に思っているのか、軽く首を横に傾けている。 目が合った以上、このまま何も言わずに去るわけにもいかないだろう。 衛藤が彼女の演奏について、さきほど抱いた感想を素直に告げようと、 自転車の向きをそちらへ変えようとした、そのときだ。 「日野ちゃ~ん、おっまたせ~!」 という、女の子の声が響きわたった。 二人の少女がヴァイオリンの少女に近づいて来て、何やら会話している。 楽しげにしゃべっている様子に、衛藤も感想を告げる気がそがれ、そのまま自転車を出発させた。 公園内を自転車で走り、車が行き交う大通りにでる。 ( さっきのヤツは、お世辞にも上手い演奏じゃなかった。 華もない。どこにでもいるような平凡さだった。 でも、何で俺は あの演奏姿から目が離せなかったんだ ?) 自分の行動の理由が、すぐにでてこない。 戸惑いのまま、自転車を走らせていると、 大通りをはさんだ向こう側にある店の脇に、見覚えのある車が停まっていた。 キイッ! と甲高いブレーキ音をたてて、自転車を止める。 (あの車──暁彦さんじゃないか?) 従兄弟で、星奏学院の理事をしている吉羅暁彦の車と似ている。 素早く車種とナンバープレートを確認すると、記憶の中にあったものと同じだった。 間違いなく、吉羅の車である。 (やっぱりそうだ。せっかく見つけたんだ、声でもかけていこう) 衛藤が、横断歩道を見つけ、向こう側の道へ移動していると、 ちょうど店から吉羅がでてくるところだった。 「暁彦さん!」 自転車を走らせながら、衛藤は吉羅に向け、声をかけるのだった。 ──そんなことがあったなんて、俺はすっかり忘れていた。 ──彼女の音色も、思い出しもしなかった。 ──そう、星奏学院で暁彦さんに、会うまでは。 END |