シナリオ
SCENARIO

全7本のシナリオで描かれる
壮大なストーリー

戦乱の幕開けを告げる「184年2月 黄巾の乱」から諸葛亮による北伐が始まる「227年2月 出師の表」まで、全7本のシナリオを収録。三国志の物語を紡ぐさまざまなイベントが、プレイヤーの没入感をさらに高める。
それぞれの時代を彩った個性豊かな群雄から勢力を選び、己の戦略で中華統一を目指せ。
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184年2月黄巾の乱
後漢末期、漢朝は腐敗と混乱を極め、疲弊した民は救済を求めていた。
そんな中、太平道の教祖・張角が漢朝打倒の兵を挙げると、蜂起の波は瞬く間に天下に広がった。世に言う「黄巾の乱」である。乱世の幕が上がった。
190年1月反董卓連合軍
「黄巾の乱」が終息したのも束の間、宮中では何進と十常侍が共倒れ、宙に浮いた天子を握ったのは西方の雄・董卓だった。
董卓は圧倒的な武力を背景に朝廷に君臨し、これに憤った諸侯は一斉に反董卓の兵を挙げた。
194年6月群雄割拠
暴虐の限りを尽くした董卓も、最期は呂布に討たれた。
再び群雄割拠の様相を呈す天下。河北では袁紹と公孫瓚が争い、中原では徐州に侵攻した曹操の背後を呂布が襲う。そして、江東では若き孫策が世に名乗りを上げた。
200年1月官渡の戦い
割拠した群雄は次第に淘汰され、今や天下の覇権は二強の争いに絞られていた。
公孫瓚を倒して河北を制した袁紹と、献帝を擁して中原を制した曹操である。袁紹か、曹操か。二強の動向に天下の耳目が集まっていた。
207年9月三顧の礼
袁紹に勝利した曹操は河北一帯を平定し、その狙いを江南へと定めた。
これに対し、荊州の劉表は客将の劉備を新野に駐屯させ、曹操への備えとする。一方、江東では孫権が文武に臣を充実させ、着々と地盤を整えていた。
217年7月漢中争奪戦
赤壁において曹操は孫権、劉備連合軍に敗れ、天下統一の野望は灰燼に帰した。
やがて劉備が蜀を制すると、天下は曹操、劉備、孫権の三者に分かたれる。勢いに乗る劉備は漢中へと侵攻し、曹操との決戦に臨むのだった。
227年2月出師の表
曹操、劉備らは既に亡く、漢朝も滅亡し、天下は魏、呉、蜀による鼎立の様相が色濃くなっていた。
そんな中、魏帝・曹丕が急逝すると、これを機と見た蜀の諸葛亮は「出師の表」を上奏。魏を打倒すべく北伐を敢行した。
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251年1月氏姓覇乱
張、孫、王、劉、曹、李……数多くの氏姓がある中、同じ氏姓の武将が集結して勢力を築き、天下の覇を争ったら、どの氏姓が勝者となるか。中華の歴史の中で大きな意味を持つ氏姓。今、「三国志最強の氏姓」が決まる。
188年8月黄天当立
黄巾軍が洛陽を陥落させたことで漢朝は滅亡した。その後、張角が経世済民に尽くすと、その姿勢に感銘を受けた曹操、孫堅、袁紹らは黄巾に帰属する。しかし、張角は病に倒れる日が多く、黄巾の世に暗雲が立ち込めた。
199年7月河北の雄・公孫瓚
易京の戦いに勝利した公孫瓚は河北を制圧し、徐州で呂布を降した劉備と連携して曹操と対峙する。一方、敗れた袁紹は故郷・汝南まで逃げ延びると、同じく敗残の身となった袁術と合流し、袁家再興の一歩を踏み出した。
202年6月河北争乱
官渡での大勝により、天下の情勢は大きく曹操に傾いた。挽回を図る袁紹は倉亭で再び曹操と対決するが大敗し、間もなく病没する。
袁紹死後、袁譚と袁尚は後継者を巡って争い、曹操はこの機を逃さず冀州に攻め入った。
215年8月合肥の戦い
劉備の入蜀により、天下は三分へと歩み始めた。これに憤った孫権が荊州返還を求めると、劉備は言を左右にしたが、曹操の漢中侵攻を知って話をまとめる。
一方、孫権は、この機を逃さず大軍で合肥に進軍するのだった。
198年3月呂布討伐戦
呂布の闖入により中原の均衡は乱れに乱れ、曹操、劉備、呂布、袁術による策謀と戦乱が絶え間なく続いた。
やがて袁術が皇帝を僭称し、その袁術と呂布が手を組むと、曹操は劉備と協力して呂布討伐に乗り出すのだった。
199年11月漢忠臣ここにあり
献帝を曹操から救うべく、董承は馬騰、劉備と共に献帝を許昌から逃がした。しかし、脱出時の攻防で馬騰と劉備が戦死する。馬騰軍は馬超が継ぐも韓遂に離反され、劉備軍は献帝に随行するも張飛の行方は知れなかった。
211年7月潼関の戦い
赤壁での大戦後、劉備は荊南を平定して地盤を確保し、孫権は周瑜の死により戦略の再考を迫られた。
一方、曹操は再度の南征を企図し、後顧の憂いを断つべく馬騰を謀殺するが、これに激怒した馬超が復讐の兵を挙げた。
209年3月曹家分裂
赤壁での大戦において曹操が思いがけず落命し、その後継を巡って曹丕、曹彰、曹植、曹熊が争い始めた。
これを好機と見た群雄は各地で勢力を拡大し、天下は再び混迷を深めていく。乱世の奸雄の死は何をもたらすのか。
234年2月秋風五丈原
孫権が皇帝となったことで、魏、呉、蜀による三国鼎立は名実ともに完成した。
蜀の諸葛亮は呉蜀同盟を盤石のものとすると、三年かけて国力を充実させ、五度目となる北伐を開始する。対する魏は司馬懿に全権を託した。
249年1月正始政変
諸葛亮亡き後、蜀では蔣琬らが国政を支え、呉では孫権の失政が目立つようになっていた。
魏では曹叡が公孫淵を討って遼東を併呑するも急逝。曹爽と司馬懿が新帝・曹芳の後見人となるが、両者の間には溝が生じていた。
221年7月夷陵の戦い
三国鼎立の情勢が形作られる中、関羽の死によって荊州は孫権に帰し、曹操の後を継いだ曹丕によって漢朝は滅ぼされた。
失意の劉備は魏に対抗して蜀漢を建国するが、しかし、その矛先は魏ではなく孫権へと向けられた。