鄧艾
文鴦

とうがい

鄧艾

字:

し さ い

士載

ぶんおう

文鴦

鄧艾と文鴦
引分

 
五十合打ち合っても勝負がつかず、魏の軍勢が押し寄せたので文鴦は逃げ出した。
 

司馬師が皇帝・曹芳を退位させたことに憤る毋丘倹は文欽と手を結び司馬師に対して挙兵する。文欽の息子・文鴦は司馬師の陣を攻撃し大暴れする。そこへ司馬師の援軍・鄧艾が到着し、文鴦へ一騎討ちを挑む。その勝敗の行方は…
対決!
鄧艾
197年〜264年
魏の武将。兗州刺史として毌丘倹の反乱鎮圧に参加した後、相次ぐ姜維の北伐軍と戦う。263年、司馬昭の命を受け、鍾会と共に蜀討伐戦を起こす。鍾会が剣閣で姜維と交戦する間に陰平の山道を通過。綿竹関で諸葛瞻を討ち、劉禅を降伏させた。
文鴦
?年〜?年
魏の武将。本名は文淑。幼名が阿鴦で、文鴦は通称。身長8尺。鋼の鞭を使う。その活躍ぶりが趙雲に比較されるほどの猛将。父・文欽と共に毌丘倹の反乱に加わり、司馬師の陣を急襲。鄧艾に迎撃され、単騎で脱出して呉に逃亡した。諸葛誕が反乱を起こすと、文欽と共に呉の一軍を率いて救援に駆けつける。しかし、諸葛誕と仲違いした文欽が殺されたため、弟の文虎と共に魏軍に降伏した。