太史慈
張遼

た い し じ

太史慈

字:

し ぎ

子義

ちょうりょう

張遼

字:

ぶんえん

文遠

太史慈と張遼
引分

七、八十合あまり打ち合ったが勝負はつかない。曹操軍の楽進と李典が孫権を襲ったため、太史慈は張遼を振り切って救援へ向かい勝敗はつかなかった。
 

合肥を曹操軍から奪おうと、孫権軍は合肥を守る張遼の挑発にのって出陣する。孫権に一騎討ちを仕掛ける張遼に対して太史慈が主君に代わって迎え撃つ。その勝敗の行方は…
対決!
太史慈
169年〜209年
母の恩返しのため、黄巾残党に包囲された孔融を助け、劉備から援軍を取り付けた。その後、劉繇に仕え、江東に進出した孫策と激闘を演じ、最後まで抵抗する。赤壁の戦いの翌年、合肥[ガッピ]を攻めて張遼と渡り合う。
張遼
169年〜224年
呂布の武将。後に曹操に仕える。呂布が下邳で敗死した時に捕らえられ、劉備と関羽の勧めで曹操に登用される。曹操軍が関羽を下邳に包囲した時は関羽に降伏を説いた。官渡の戦いの後、烏丸討伐を指揮し、白狼山で蹋頓[トウトン]を討つ。赤壁の戦い後は合肥[ガッピ]に入り、魏呉国境を守る。215年、李典、楽進と共に逍遥津[ショウヨウシン]で孫権軍を大破し、その名を聞けば泣く子も黙ると恐れられた。