足利将軍家の後継者争いに端を発した応仁の乱は、全国に戦乱の嵐を巻き起こした。子が親を討ち、家臣が主君を討つ「下剋上」の時代が到来したのである。そんな中、1534年5月、尾張古渡城主・織田信秀に嫡男・吉法師が誕生した。吉法師は、のちに「織田信長」と名乗り、天下に手をかけるところまで上り詰めることとなる…


 父・信秀の死後、織田家の当主となった信長。尾張守護代・織田信友を討って清洲城に移るなど、尾張の統一を進める。しかし1556年4月、舅・道三が子・義龍の謀叛により死ぬ。道三の死に呼応するかのように、同年8月、実弟・信行が信長に反旗を翻した。尾張を統一するためには、信行を討たねばならない。信長の苦悩の日々が始まった…


 足利義昭を擁して上洛を果たし、義昭を将軍職に就けるなど順調に勢力を伸ばす信長。しかし、義昭は自らが傀儡であることを悟り諸大名に「打倒信長」の檄を飛ばし始めた。そんな中、1570年4月、信長は朝倉義景討伐のため越前へ向かうが、陣中で妹婿・浅井長政が寝返ったとの報告を受け取った。信長に生涯最大の危機が迫ろうとしていた…


 朝倉家・浅井家・本願寺などの宿敵を次々と葬り去り、信長は天下布武を着々と進めていった。そんな中、1582年2月、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が織田家への服属を申し出る。武田家の凋落を見て取った信長は義昌の申し出を承諾し、嫡男・信忠に武田家攻めを命じた。もはや信長の前に敵はいないかに見えた…

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