『レイナの追憶―バースにて―』

バース歴2021年5月19日。

世界有数の外資系企業に入社したレイナは、
社会人3年目にして大規模なプロジェクト任されるほど、先を期待された人物だった。

仕事はやりがいがあるし、自分を応援してくれる優しい家族もいる。

はたから見れば、順風満帆―――そんな彼女も、すべてが順調なわけではなかった。
今日のレイナの胸には、普段は気にならない些細なことが、抜けない棘のように刺さっていたのだ。


「レイナさんって、すごすぎて仲良くなれないよね」と陰で話すアシスタントたち。

普段ミスしないからこそ、小さな過ちをここぞとばかりにビデオ会議で詰めてくる同僚。

レイナに追い抜かれることに怯え、メールでマウントを取ってくる先輩。

慣れたことだ。子供の頃から、何度も同じような状況を味わっている。なのに、今回は違った。


久しぶりに出社した夕方の会議室に、若い男性の声が響き渡る。
PC画面の向こうの後輩は、うつむいていて表情が見えない。

「レイナ先輩と同じようになんか、できません」

「なぜ。それを出来ないと言うのは、甘えだわ」

後輩の依頼心を、レイナは許せなかった。
それは社会人として「正しくない」ことだ。

凍った空気を見かねて、同僚が割って入る。

「レイナ、さすがにその言い方はきつすぎる。君はパーフェクトだが、それじゃ誰も着いて来ない」

後輩が頷く。ずらりと並んだ画面を見ると、他の人たちもおおむね同じことを考えているようだった。


ふと、足の力が抜けた。自分を支えているものが崩れかけているのを感じた。なぜ。こんなことで?

「……ごめんなさい」

それだけ言うと、ミュートボタンを押して黙り込む。その後は、定時に仕事を終え、会社を出た。
まだ外は明るい。こんな時代でも出社している人は他にもいるようで、
同僚らしき女性が連れ立って歩く楽しげな様子が目に映る。
ガラスに映る、黒いマスクをした自分が、今日はやけに小さく見えた。


気持ちを晴らすため、どこかで酒を飲みたかった。

―――だめよね。でも、こんな日は一人でいたい…。

そんなとき、『女王と9人の神様』の看板が目に入った。初めて見る店だ。「完全予約制。
お客様1人の貸し切りのみで営業中」というボードの横に、「本日、予約なし」と書かれた紙が貼ってある。


レイナは、『女王と9人の神様』の物語が大好きだった。
小さい頃に子供がよく聞く童話の一つで、
「この世界は、宇宙の女王さまと9人の神さまたちに支えられている」という物語だ。
神様として描かれる守護聖たちは皆うるわしく、女王は凛々しく優しい。
レイナは大人になった今でも、物語や関連するモチーフに心を躍らせ、書籍を集めたりしている。

守護聖信仰者が集まるバーだろうか? 
それとも、童話モチーフのインテリア? 
バーテンダーが守護聖様の格好をしていたらどうしよう……。
「30分だけ。1杯飲んだら帰ろう」と心に決め、高揚する心を抑えつつ入ってみると、
拍子抜けするほど普通の、小綺麗なバーだった。静かなバーテンが一人、シェイカーを振っている。

「ジントニック、いただけるかしら」

軽く落胆しつつもそう言って、レイナはカウンターに腰を下ろした。

ジントニックのカクテル言葉は「強い意志」。カクテル言葉に詳しい父親のせいで、
レイナまでカクテルを頼むときは、気分に合わせるようになってしまった。
「強い意志」。今日の自分にはぴったりだ。あんな些細なことで、
何もかも捨てて逃げ出したい気分になっているのだから。

ジンの強い香りが鼻を抜ける。ライムの爽やかな酸味が、疲れた身体に染み渡って気持ちがいい。
良いお店を見つけた。今後、たまに来るのもありかもしれない。そう思ったとき、
後ろから「あの、もし」と声をかけられた。

振り返ると、ホテルマンのような恰好をした若い男性が、片手に契約書を持ち、にこやかに微笑んでいる。

『なんだかとても、お疲れのご様子。転職なら、いいところがありますよ。
聖なる土地で、女王になりませんか?』


絵に書いたような怪しい誘い文句だ。普段なら絶対、相手にしない。けれど。


――――もし、この人の誘いに乗ったらどうなるのだろう?

かぼちゃが馬車に変わったように、魔法のランプから妖精が現れたように……
彼の言葉に頷くだけで、こことは違う世界に行けるとしたら?



(小さい頃におとぎ話でしかなかった世界が、私の日常になったとしたら)

(ここで頷くことで、今の状況から逃げられるなら)



心の中で、軽く警鐘が鳴る。「怪しい仕事じゃない?」「女王ってどういう?」

しかし、それをレイナは無視した。そして、普段なら相手にしないだろう提案に――


「契約します」


そう返したのだった。



――5月20日に、あなたのところへもサイラスが行くでしょう。心配することはありません。
もう一人の女王候補が、一足先に、飛空都市であなたを待っています。