天下布武を唱え、領土を広げる魔王・織田信長。
彼を止めるべく、武田信玄、上杉謙信、北条氏康の三人が手を組んだ。
関東三国志を演じた最強の英傑たちに対するは、後に天下の三傑と称される信長と、
その後継者たる羽柴秀吉、徳川家康。
それぞれの天下を懸けた決戦が今、始まる。
お待たせしました、「週刊 天下統一」第21号の配信です! 今週は真田幸村、くのいち、甲斐姫の武器をセットしたすれちがいデータを配信します! 今回の表紙に描かれているのは、幸村の「大坂夏の陣」での特攻姿です。 ゲームにも登場した、とても有名なエピソードですね。 ところでこの幸村、大坂の陣後の生存説が根強く残っているのを皆さんはご存知でしょうか? 優れた戦術家としても有名だった幸村のもとには、忍びや影武者が多くいたという逸話があります。 一説によれば、大坂の陣において戦死したのはその影武者の1人であり、 幸村自身は鹿児島に生き延びたというのです。 この逸話は、当時の記録や伝承をもとに生まれました。 その1つに、平戸のイギリス商館長を務めたリチャード・コックスの日記があります。 彼は、大坂の陣終戦後の日記において 「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見されていない。重臣の5、6名と共に脱走しており 恐らくは薩摩に居るとの風聞が広がっている」と書き残しています。 またある記録では、終戦後の大坂城の被害状況はひどく、 秀頼ばかりではなく幸村ら敗軍の将たちの遺体の確認も正確に行えなかった、とされています。 それらの諸説に伴い、幸村が秀頼を守り鹿児島に渡ったとされたのです。 鹿児島には、幸村が兄・真田信之と交わしたという書簡や、 幸村が参勤交代に伴い各地を旅していたという記録が今も存在するともいわれています。 幸村が秀頼とともに鹿児島へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、当時の京や大坂では 「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて、退きも退いたよ加護島 (鹿児島)へ」 という童歌が流行したといいます。 (ちなみにこの歌をヒントにしたイベントがゲームに登場しているのですが、皆さんはお気づきでしょうか? まだの方は、さっそく幸村の友好度を上げてゲームを進めてみてください!) 生涯義を貫いた幸村は、のち江戸期を通じても人々に親しまれ、 明治以降に成立した講談『真田十勇士』の物語で、一層その名を有名にしました。 物語の中で、幸村は猿飛佐助や霧隠才蔵といった忍びたちを駆使して数多の戦を切り抜けます。 これは、幸村には忍びや影武者が多くいたという逸話から着想を得ているともいえるでしょう。 童歌から講談、小説、映画、そして現在ではゲームまで! 時を越えてその活躍が語り継がれる真田幸村は、日本が誇るヒーローといっても過言ではありません! そんな幸村と一緒に、最後までゲームを遊びつくしてくださいね! それでは、「今週の出来事」のコーナーです。 【今週の出来事】 1567年8月15日 織田信長が「稲葉山城の戦い」に勝利し稲葉山城を岐阜城に改称しました。 尾張、美濃2国を領する大名となった信長は、これより「天下布武」の朱印を用い、 天下統一を進めていきます。 1598年8月18日 豊臣秀吉が京の伏見城で病没しました。享年62歳でした。 このことより、この日は「太閤忌」とされています。 死期が近いことを悟った秀吉は、家康を始めとする五大老らに嫡男・秀頼の後見を託しこの世を去りました。 この後、「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」を経て、戦国の世は終結します。 辞世の句 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 それでは最後に『戦国無双 Chronicle』をお楽しみの皆様にお知らせです。 今号をもちまして、すべての武将の武器をセットしたすれちがいデータの配信を終了しましたが、 ご好評によりこれからも「週刊 天下統一」の配信を継続します! 次号からは、すれちがいデータの配信をメインにお送りしていきます。 武将たちの新たな武器を2人ずつ週替わりで配信する予定ですので、 変わらぬご愛顧をよろしくお願いいたします! それでは次回、第22号をお楽しみに!