反董卓連合瓦解後の群雄の思惑が交錯する「191年10月 二袁の思惑」、三国志演義最大のターニングポイント 「208年10月 赤壁の戦い」、関羽の北上に対し魏と呉が連携する「219年7月 関羽包囲網」、司馬懿による燕王・ 公孫淵討伐「238年1月 遼東征討」の4本のシナリオが新たに追加される。
それぞれの時代を彩った個性豊かな群雄から勢力を選び、己の戦略で中華統一を目指せ。
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191年10月二袁の思惑
「反董卓連合」は志半ばに瓦解し、諸侯はそれぞれの思惑で動き始めた。連合軍の盟主だった袁紹は韓馥から冀州を奪い、公孫瓚と激突する。一方、袁紹と反目する袁術は、劉表を打倒せんと孫堅に荊州侵攻を持ちかけた。
208年10月赤壁の戦い
曹操の大軍を前に荊州は戦わずして降伏した。抗戦を続ける劉備は、孫権と同盟して曹操と戦うべく諸葛亮を江東に派遣する。ついに開戦を決意した孫権は周瑜に全権を託し、孫権、劉備連合軍は赤壁で曹操軍と激突した。
219年7月関羽包囲網
漢中で曹操に勝利した劉備は、魏王・曹操に対抗せんと漢中王となった。続けて荊州の関羽に北上を命じると、これを恐れた曹操は密かに孫権との連携を画策する。今や孫劉同盟は形骸化し、孫権も荊州奪還を狙っていた。
238年1月遼東征討
劉備の遺志を継いだ諸葛亮は五丈原に没し、魏、呉、蜀による三国鼎立の情勢は新たな段階へ移った。そんな中、遼東に割拠する公孫淵が燕王を名乗り、魏に反旗を翻す。事態を重く見た曹叡は司馬懿に遼東征討を命じた。
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212年6月錦馬超飛翔
潼関において馬超は曹操を討って仇を取り、大勝の勢いのまま洛陽まで進軍した。曹操の後は曹丕が継いだが、その強硬手段も辞さない態度に曹彰が反発。さらに献帝も曹丕を恐れ、荀彧らと共に洛陽へ脱出するのだった。
197年7月皇帝呂布
群雄による中原の覇権争いが続く中、皇帝を僭称した袁術が思いがけず急死した。袁術と同盟を結んでいた呂布は即座に袁術軍を取り込むと、その帝位をも襲って皇帝に即位する。かくして皇帝・呂布が君臨するのだった。
225年7月南蛮征伐
関羽の仇を討たんと劉備は荊州に侵攻したが、夷陵で孫権軍の陸遜に大敗し、諸葛亮に後事を託して没した。諸葛亮は劉禅を盛り立てつつ、再び呉と同盟を結んで魏に抗する構えを整える。そこに南中の叛乱が知らされた。
210年11月天下二分計
赤壁での大戦に勝利した周瑜は難なく江陵を奪取すると、劉備を荊南に封じつつ、自ら入蜀して劉璋を降した。さらに漢中の張魯を併合し、西涼の馬騰と同盟して大局的に曹操を包囲する。これぞ周瑜の天下二分計である。
196年6月曹操の台頭
中原では曹操と呂布が大いに争い、敗れた呂布は徐州の劉備を頼って落ち延びた。江東では孫策が一気呵成の進撃で勢力を拡大する。そんな中、李傕、郭汜ら董卓残党の抗争に乗じて長安を脱出した献帝が洛陽に帰還した。
235年1月秋風越えて
五丈原において諸葛亮は星に禳って天命を延ばし、生きて司馬懿を走らせ長安を制圧した。蜀軍の勢いを警戒した魏の曹叡は、洛陽から鄴に遷都しつつ、前線に戦力を集めて決戦に備える。諸葛亮の戦いはまだ終わらない。
201年5月華北の覇者・袁紹
官渡の戦いは袁紹の大勝に終わった。敗残の曹操は再起を試みるも、袁紹に連動した劉備の急襲を受けて許昌と献帝を失う。さらに東方では徐州の民に阻まれ、西方では馬騰に長安を奪われ、やむなく宛に逃れるのだった。
209年6月志在千里
赤壁での大戦において曹操は孫権、劉備連合軍に勝利し、江南の大部分をその勢力下に収めた。孫権と劉備はそれぞれ敗残の軍をまとめ、南方に逃れて抗戦を続けるが、しかし、曹操の天下統一の時は着々と近づいていた。
188年6月揺らぐ漢朝
張角の死により「黄巾の乱」は終息したが、各地では漢朝への反乱が相次いだ。西涼では韓遂が、幽州では張純が、長沙では区星が挙兵し、諸侯は鎮圧に奔走する。しかし、宮中では何進と十常侍が政争に明け暮れていた。
263年5月蜀漢の滅亡
正始政変の後、魏では司馬氏が台頭し、司馬師を継いだ司馬昭が実権を掌握した。蜀では姜維が北伐を繰り返して国力を損耗し、やがて国政も乱れ始める。これを好機と見た司馬昭は鍾会と鄧艾に蜀討伐を命じるのだった。