【 エッセイ部門 佳作 】 湖太郎 様

恐いおじさん


恐いおじさんは、小学生の私にとって、ただ恐いだけの存在であった。まだまだパソコンが一般的でなく、パソコンソフトも書店や電気屋さんで少し陳列しているだけの時代。現在のように、インターネットなどはなく、書店に並べられたパソコン雑誌を見ながら、ゲームソフトに興味津々の毎日であった。少ないお小遣いを貯めて、貯めて、やっと手の届く存在、それがゲームソフトであった。「これだ!」と決めたソフトの発売スケジュールが毎月のパソコン雑誌に発表され、一喜一憂しながら、店頭に並ぶ日を楽しみにしていた。パッケージを手に取って、想像力を膨らまして、一大決心をする、大事な儀式でもあった。こうした中、恐いおじさんが印刷され、メーカー名も漢字で記されている、小学生の私にとって「異様に近寄りがたい」商品として、光栄のソフトは認識されていた。
私は勉強が大嫌いであったが、ゲームは大好きであった。カタカナで表記されたソフトの多くは、そのタイトルの意味もわからなかった。ただ、見たことのない世界観を表したパッケージに惹かれ、そうした数あるゲームソフトの虜になっていた。敵を撃つ、敵を倒す、敵から逃げる。今考えれば単純極まりないものが楽しくて仕方がなかった。また、ゲームとはそういうものであるし、動体視力や器用さを求められることが、当然のものだと思っていた。

そうしたある日、高価なパソコンを持つ友達の自宅に誘われた。なんでも、父がやっている、とても面白いゲームソフトがあるのだと言う。とにかくゲームに興味のあった私は、その内容も詳しくも聞かず、とにかく見てみたい、そうした衝動で、友達の家に行った。それは、PCのモニターに、ただ日本地図が描かれていて、読めない漢字が映っているものだった。今まで考えていたゲームとは全く異なるものであった。友達の指示のとおり、テンキーに手を伸ばし、ただ数字を入力する。小さなアニメーションが動き、よくわからない数値が少しずつ上昇する。そして、あっという間に時間だけが過ぎてゆく、そうした「もの」であった。意味もわからず、ゲームオーバーもゲームクリアも出ず、その日は結局「SAVE」という作業だけで終わった。帰りがけにパッケージを見せてもらうと、恐いおじさんが描かれ、そして漢字で光栄と書かれた、見覚えのあるパッケージであった。そう、他のソフトと一緒に陳列されていた、異様に高い価格で、妙な感じのメーカー名の、『信長の野望・全国版』であった。

今考えれば、国を造るという作業は、人の一生をかけても完成できない大事業である。「信長の野望」は、国力を示すもの、また人の能力も数値化し、その客観値により国づくりが進められる、そうしたゲームであった。全ての数値化は、現実世界とは全く異なるものではあるが、それに成功した「信長の野望」は、数値に縛られること以外は、自由度のあるシミュレーションゲームとして私の心に棲み付いた。これ以降、「信長の野望」をきっかけとして、光栄が発表する「信長の野望」「三國志」「蒼き狼と白き牝鹿」の歴史三部作がゲームライフの中心となった。それぞれの世界観を構築した歴史物語を読み漁り、壮大な舞台を駆け巡った英雄たちの一挙手一投足に驚嘆し、感動し、落胆し、そして遠い世界に思いを馳せた。現実の歴史と、書物に著された歴史、その違いを認識しながら、ますます想像力を増大させて。こうして、歴史シミュレーションゲームにおいて自分の世界を思い描くことに没頭した。歴史シミュレーションゲームで培った、世界を読み解く力と、事実を観る眼は、私の人生の節々で力を発揮している。そして、今、私は不惑の歳を超えた。
40歳を超えた信長は、長島の一向一揆を鎮圧し、長篠の戦いで武田勝頼を破り、天下の覇道を進み続けた。幾多の困難を乗り越え、ここから先は人生の終焉まで、まさに黄金期となる。そうした年代であった。

「信長の野望」をはじめとした、あの時の作品群にはEntertainment & Educationという、もうひとつの名前が冠されていた。ただのゲームではない、楽しみながら学ぶことができる、という当時の制作スタッフの想いが、感受性の高い少年期を育て上げたのだと思う。近年、私はゲームに没頭する時間はなくなった。しかし、子ども達が逞しく健やかに育つことができるよう、そうした社会を作り上げる大人となった。仕事の中心となり働く、そういう立場にある。まさに、私達が少年期に受けた様々な刺激を、こんどは提供する立場にある。
あの恐いおじさんは、昔も今も逞しい様々なおじさんを作り上げ、再生産し続けている。こうした歩みの繰り返しこそ、まさに歴史という営みなのである。

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