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夜深(よふか)
横たわり、目を閉じた泰明の耳に、水滴の音。
たった一滴。
だが、泰明はぱちりと目を開ける。
つい一瞬前まで眠っていたとは思えないほど、なめらかな一挙動で、泰明は立ちあがる。
(呼ばれた)
手早く髪を結い上げ、着替えると、泰明は廊下に出る。
師・晴明の房のそばまで行くと、中から小さな、しかし通る声が泰明の名を呼んだ。
深みのある声だ。
泰明は片膝をつき、次の言葉を待つ。
実際には泰明は、晴明が何を言うのかわかっていた。
「時が――満ちるぞ。準備はよいな?」
(そのために、生まれてきた)
泰明は脳裏に浮かんだその認識を再確認すると、立ちあがる。
「貴船はだめだぞ」
「火之御子社へ」
「それがいい。雷公によろしくな」
「もしもまみえれば、必ず」
泰明がそう返事をすると、晴明は低く笑った。
それは、泰明が火之御子社や北野天満宮に出向くとき、必ず晴明と交わす会話だった。
雷公、というのは菅原道真の怨霊の呼び名で、彼は北野天神として祭られていた。
そのわりには恨みを捨てきれぬのか、時折現れることもあったようだ。
怨霊としての道真と晴明の間には、過去になにやらあったらしい。
だが晴明は誰に聞かれても細かいことを話さなかったし、泰明は自分に関わりないことだったので聞いたことがない。
わかっているのは、晴明がけっして道真をいとうていない、ということだけだ。
ほとんど音を立てずに晴明の房の前から立ち去ると、そのまま泰明は晴明の屋敷をあとにする。
通りには人の姿も気配もない。
深夜。
雲が天を覆っている。
この暗いあやかしの刻限に出歩く人間はいない。
常と変わらぬ歩調、常と変わらぬ様子で、泰明はまっすぐ火之御子社に向かう。
すでに狂いつつある京の五行の力を、それでも少しは得ようとするなら、その社がもっとも適していた。
貴船はすでに穢されていたから、もう力を得ることはできなかった。少なくとも、今は。
泰明は社の前に立ち、ぱちりと目を閉じる。
深く息を吐く。
吐ききってから、とめる。
ゆっくりと息を吸う。
吸いきってから、とめる。
その単調な動作を何度も繰り返す。
不意に雲が切れた。
かすかな月光が差し掛かる。
薄く目を開けて、泰明はその光を受け止める。
(日に対する月は陰――)
その光のしらじらとした音が、自分の中にすべりこんでくるのを、泰明は受け入れる。
(闇の中の月は陽――)
月という一つの存在ですら、陰であり、また陽でもある。
それは自明のことだ。
すべての事象は陰と陽に、五行に、八卦に帰結する。
以前とはくらべものにならないほどゆっくりと、五行の力は泰明の中に満ち始める。
以前はこうではなかった。
――師・晴明の力のすべてを受けたあの二年前は、こうではなかった。
京は四神に守られ、龍脈を五行の力が正しく流れていた。
五行の力はどこにいてもやすやすと自分の中に満ち、
だが、泰明が晴明の技を受け継いでいる間に、すべては歪みへと向かい始めた。
陰と陽はただしい理(ことわり)を描かず、四神の加護もなく、龍脈は穢されようとしている。
(それを正すために在る)
己が。
すべてを正常にするために。
そのために自分は在るのだ、と泰明は自覚している。
それが己のすべてなのだと――。
ぴり、と右頬に裂けるような痛みを感じ、泰明はかすかに柳眉をよせた。
今までに感じたことのないような痛みだった。
何も異変がないことを承知しながら、泰明は右目よりわずかに下の皮膚に触れる。
なぜ自分がそこに触れたのかはわからない。
異変がないことを知りながら、それでも指がその場所に触れた。
思った通り異変はない。
だから、泰明は中断された呼吸を整えなおし、ゆっくりと五行の力を満たすことだけに意識を引き戻す。
明日――はじまる。
星の姫の占いどおり、明日、龍神の神子が選ばれる。
京を救うその存在を鬼の手より守り、命に従い、京を守ること。
(そのために、生まれてきたのだ)
月は、じきに沈む。
夜が明け、陽がのぼり――鬼の穢れがその陽を蝕する、「運命の日」が、訪れる。
[終]
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