|
北闇(ほくあん)
仏の前で手を合わせ、こうべを垂れる。
それが嘘であってほしいと願う。
間違いであってほしいと望む。
逃げたいと思い、逃げられないと感じる。
おのれの無力さを思い知り、絶望的な気持ちになる。
何かの間違いなのだ。
何度そう願ったかは知れないが、間違いではないことは承知していた。
永泉は数珠を握りなおす。
手には汗をかいていた。
ため息をつく。
もう夕刻すら終わり、すでに夜が空に広がっていた。
昼下がりに、帝のところに呼ばれたとき、永泉はひどく胸騒ぎを覚えていた。
いや、その胸騒ぎは数日前から続いていたので、非公式の帝の文を開きながら、当然のことのようにも感じていた。
とても大切なことが――大事なことが始まる。
そんな気がした。
帝のところに出向き、「兄上」と声をかけそうになる。
その言葉を慌てて飲みこんだのは、一人の幼い姫が、自分をまっすぐに見つめていたからだ。
聡明そうな顔立ち……年のころは十ばかりか。
「永泉様……でございますね。私は、左大臣の娘で藤と申します」
丁寧に頭を下げ、それから、もう一度永泉を見つめる。
「龍神の神子をお守りする八葉に、永泉様が選ばれます」
確固たる口調。
戸惑った永泉がただ黙っていると、帝が――それは永泉にとっては、優しい兄に他ならなかった――はきはきした物言いで口を挟んできた。
鬼の一族が京に危機をもたらそうとしていること。
この幼い姫が、龍神の神子に仕える星の一族の末裔(まつえい)であること。
彼女が一族に伝わる占いで、八葉に選ばれるであろう人間を捜し当てたこと――。
永泉はそれをぼんやりと聞きながら、ただ一つの問いを口に出すことができず、黙っているだけだった。
数珠を握り締め、永泉はただ仏に向かって祈り続ける。
自分が八葉になるであろうこと――星の姫君が言うならそうなのであろう。
「鬼の一族は残忍にして冷酷な性質」
「京を滅ぼそうとしている」
鬼が京を滅ぼすということは、帝を――兄を追放しようとしているということ。
……いや、追放で済むならばいい。
いやな考えに、永泉はゆるく眉をひそめる。
それを追い払うように頭を振るが、どうしてもその考えが離れていかない。
兄上の命が失われるなんて……。
考えられなかった。
考えたくなかった。
だが、その悪い想像ばかりが胸の奥でふくらむ。
晴れない雨雲のように――。
ぴり、と左の手のひらに裂けるような痛みを感じ、永泉は数珠をとりおとした。
誰もいないがらんとした堂の中に、石が床に落ちる音が響く。
永泉は、すぐに数珠を拾うことができなかった。
今までに感じたことのないような痛みだった。
触れてみても、特に異変はない。
だが、永泉は左手のひらをみつめたまま、動くことができなかった。
そこから何か、得体の知れないおそろしいものが出てくるのではないかとでもいうように。
『八葉』――その実態の知れぬものが、自分をくいつくしてしまうのではないかと、恐れた。
その不安が、小さくなるよう、数珠を拾った永泉は一心に祈るしかできなかった。
[終]
|