西天(さいてん)
もう、夕刻だった。
すでに日は山際に半ば消え、気づくと室内には鷹通一人しか残っていなかった。
そういえば、部下たちが口々に今宵の月と桜を肴(さかな)に、一献傾けようと誘ってくれていたことを思い出す。
だが、片付けてしまいたい仕事があったので、少し困ったように微笑んで、鷹通は辞退したのだった。
仕事熱心な上司に、部下たちは申し訳なさそうに、だが宴の喜びを口にしながら立ち去った後の、静寂。
活気こそないものの、集中できる時間――
だが、そんな時間にふと手を止めると、無用な考えが自分の中に降りてくる。
仕事をするのは好きだった。
自分の行動が、京のためになると考えるのはうれしいことだった。
誰かのために、何かのために……そのために尽くす力があること。
その力を尽くすのは、鷹通にとっては当たり前のことだった。
少し吐息をついて、持っていた筆を置く。
手元は薄暗くなっており、明かりをつけずに仕事をするのは、むずかしくなっていた。
ここいらが、今日の終わりどきかもしれない。
そう思い、作業の後片付けを始める。
誰か、まだ残っていれば頼んでもよかった。
だが、鷹通は自分の仕事を誰かにまかせるのを、あまり好まなかった。
人はみな、天から与えられた己の役割を持っている。
末席とはいえ、貴族の一門に生まれたからには、その責務を果たさねばならない。
そんなふうに考えていたから、鷹通にはわからなかった。
なぜ人が、己の責務をきちんと果たそうとしないのか。
だから、たずねてしまうのだ。
なぜ、己の本分を投げ出そうとするのか。
そんなにあくせく仕事をしたところで、これ以上の出世はのぞめないだろう。
鷹通にしたり顔でそう言う人もいる。
ならば、それなりに大きな失態もなく、気楽にやったほうが楽ではないか、と。
それが、鷹通にはどうしてもわからなかった。
そういえば以前、逆に聞きかえされたことがある。
まだ若いのに、すでに老いさらばえたような雰囲気を持つ中流貴族だった。
そんなに仕事に励んだところで何にもなりはしないのに、なぜ働くのか。
絶望的な気持ちにはならないのか、と。
絶望、という言葉がとっさに飲み込めず、鷹通はとまどった。
己の力を尽くすことが、なぜ絶望とつながるのだろう?
人に限界があるなど、あたりまえのことだ。
必要なのは、限界を嘆くことではなく、その中でいかに最善を尽くすかということではないのか。
そう反論する鷹通に、その貴族は疲れたように笑ったのだった。
あなたは自分の限界を知らないだけだ。
知ればあなたも、絶望するだろう。
自分の限界は、知っているつもりだった。
だから、鷹通はその貴族に反論しようとした。
だがそれを許さず、貴族は鷹通のそばから離れていった。
自分の限界――それは、才能であり、身分であったり、種々さまざまなものごとだ。
努力ではどうにもならないこと。
誰にでもそれは存在する。
限界を感じるのは、たまらなくつらいことだ。
だが、それは認め、受け入れなければならないことなのだ――。
ぴり、と右の首筋に裂けるような痛みを感じ、鷹通は手をとめた。持っていたものを文机の上に置く。
今までに感じたことのないような痛みだった。
触れてみても、特に異変はない。
気のせいか、と音にはせず唇だけでつぶやいて、鷹通は片付けを再開した。
そして翌日やるべき仕事を考えているうちに、痛みも、先までの思考も、意識の片隅においやってしまった。
[終]
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