南陽(なんよう)



日は中天にあり、さわやかな春のひざしが降り注いでいた。
青空に、たなびく白い雲。
だが、イノリはそんな好天には、まったく興味を示さなかった。

井戸から水を汲む。
二度、三度と水を汲む。
屋内と井戸を往復する。
だが、気持ちがおさまらない。
いらいらしているときに師匠に声をかけると、師匠に説教を食らうのがわかっていたから、イノリは気持ちを穏やかにしようと、単純な動作を繰り返した。

井戸から水を汲む。
甕(かめ)に水をうつす。
しぶきが頬に飛んだ。
それを、ぐいと手の甲でぬぐう。

いらだちの原因は、姉だった。
たった二人の家族だったから、姉と言い争うと心が痛んだ。
怒鳴った自分がいやになるが、姉の言い分を聞き入れることなど、到底できない。

どうしてわかってくれないのか。
どうして言い合いになってしまうのか。
なぜ姉は、鬼の一族をかばうようなことを言うのか。
なぜわからないのか。

鬼は、悪だと。

その言葉を口にした途端、姉の表情がくもることはわかっていた。
だが、イノリは言わずにはいられない。
鬼のせいで、味あわなくてもいいはずの苦労を味わっているのだ。

なのに、姉は悲しそうに黙り込む。
イノリは言葉をつまらせ、家を飛び出して師匠のところへやってくる。
そして、井戸から水を汲むのだ。

鬼さえいなければ、こんなことにはならなかった。
ヤツらがいなければ、きっと何もかもうまくいく。
どうして自分にはなんの力もないのか。
鬼と戦う力がほしい。
鬼を京から追い払い、平和を手に入れたい。
イノリは、切実にそう願った。

ぴり、と額に裂けるような痛みを感じ、イノリは持ち上げようとしていた甕を地面に置いた。
今までに感じたことのないような痛みだった。
触れてみても、特に異変はない。
すぐに痛みはひいたが、イノリは指で何度も何度も額をこすった。
なぜだか、とてもその痛みが気になったのだ。

「虫にでもさされたかな」

いまいましげに呟く。

ざりっと土を踏む音がして、イノリは振りかえった。
見知らぬ男が立っていた。
大柄な体つきに、わけもなく反感をいだく。
岩みたいな男だ。とっさにそう思った。

「なんだよ、あんた」
「見習のイノリとは、お前のことか?」
「見習で悪かったな」
「私の主が、お前を呼んでいる。――鬼を倒す力を持つ者として、お前が龍神にえらばれるだろうと占われたのだ」

ゆっくり、しかしはっきり言いきると、男は一呼吸置いた。
その一瞬ののち、イノリは自分が口をあけ、男を見上げていることに気づいて顔を引き締めた。
そして、男を見上げ、びしっと指差した。

「鬼を倒すって言ったな? よし、連れてけ! ちょっと待ってろよ。師匠にちょっと言ってくっから!」

鬼を、倒す、力。
それこそ、イノリがもっとも欲するもの。
師匠の元に走っていきながら、イノリは、そのためならなんでもできる、と思った。
そして、姉の悲しげな表情を意識の外に追い出す。
もう、額の痛みのことも、青空のことも、イノリの脳裏からすっぽりと消え去っていた。

[終]

 
 

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