東雲(しののめ)




桜のつぼみがほころんできたとはいえ、早朝はまだ吐く息が白い。
みなより早く起きて、頼久は庭に出た。
そっと、ほとんど音を立てず、頼久は庭を回り、屋敷の周囲をみまわる。

その早朝の見まわりは、頼久の日課だった。
頼久の一族が仕える左大臣の屋敷は広く、頼久は丹念に屋敷の周囲を見まわる。
吐く息は白く、空はしらじらと明るくなり始めている。
かすかに鳥の声がするが、それ以外は頼久の歩くかすかな音だけだ。
屋敷が目覚めるまでには、まだいくばくかの時間がある。

屋敷に異常がないことを確認すると、頼久は庭に戻った。
これからは、自分の剣の鍛錬の時間だった。
日中は左大臣の警護などで、あまり時間が取れない頼久は、朝の鍛錬を欠かしたことがなかった。
誰もいない冷たい空気の中で、頼久はゆっくりと息を吐く。

それは日課であり、儀式のようでもある。
見まわりをし、剣術の鍛錬をする。
仕える主を守るために、己を鍛える。
それは頼久にとって当たり前のことだ。

だが、その朝の鍛錬は、いつもとは違っていた。
熱が入る――雑念をおいはらうように。
執拗に脳裏によみがえる、主の声だけが意識の内に響き渡る。

『頼久、あなたが仕えるべき新しい主のために、その剣をふるってください』

頼久が仕える、左大臣の幼い姫は、昨夕はっきりと頼久にそう告げた。
新しい主のことは、何も言わなかった。
ただ、切迫したその口調が、なにごとかが起こることを知らせていた。

その『何か』がなんであれ――
己が仕えるべき主に仕えるだけだ。

主の命令を受け、従う。
そして、この命に代えても主をお守りする。
ただそれだけだ。

ぴり、と左耳に裂けるような痛みを感じ、頼久は剣をふるう手をとめた。
今までに感じたことのないような痛みだった。
触れてみても、特に異変はない。
すぐに痛みは引き、頼久もふたたび鍛錬を開始したときには、その痛みのことを忘れた。
最後に痛みについて考えたのは、「片耳を失っても、主を守ることはできる」ということだった。

いつのまにか完全に夜は明け、青い空が広がっている。
雲はなく、かすかに薫る風が頬に触れる。
だが、頼久はそのかぐわしい薫りには、まったく気づかなかった。

[終]

 
 

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