●3月17日 ヴェネツィア――

ヴェネツィア。僕はこの街をよく訪れる。
住んでいる人々は穏やかだが、とても気高い。
そこには、落ち着いた時がゆっくりと流れている。
ここは僕の第二のふるさとだ。
訪れる機会は多いし、馴染みとはいかないまでも、
顔を覚えてくれる人もいる。
ただ――会いたい人には、まだ会えない。
有名な謝肉祭ならば、僕の尋ね人も参加しているかもしれないと
思い、仮装衣装を用意し、広場に足を踏み入れた。



ヴェネツィアの街並みは、いつものような上品な雰囲気だけでなく、享楽的な雰囲気を醸し出していた。
皆、仮面をかぶって、互いの正体がわからないせいだろうか。
普段覆い隠された本能的な性格が大いに表に出ている。
一挙手一投足違わぬ、からくり人形師とその人形。
普段の生活からは夢幻でしかない戦いに思いを馳せる商人。
1年前の大切な出会いを胸に、祭りに参加した令嬢…。
誰もが、この豪奢な祭りに興じている。

僕の尋ね人は一向に見つからない。一週間滞在しても、消息すらわからない。
諦めて、そろそろ帰ろうかと思っていたその頃だ。
騒々しい声が聞こえてきた。どんなに雑然としていてもよく通る、その声には聞き覚えがある。



ポーリーヌさんだ。
仮面をかぶっていても、仮装衣装を身に着けていても、彼女のオーラはどうしてあれほど明確に彼女と知らしめるのだろう。
僕の尋ね人もあれだけのオーラを持っていればいいのに。
多くの航海者に囲まれ、楽しそうに話すポーリーヌさんを、僕は遠目に眺めていた。
彼女は、菓子売りから、謝肉祭限定のお菓子「キアッキエーレ」を取りあげると、ばりばりと音を立てて食べていた。
キアッキエーレとは、この地の言葉で「おしゃべり」という意味。
まるで、彼女のために用意されていたお菓子のようにすら思えてくる。



ふと気付くと、ポーリーヌさんは、旅の占い師に睨みを利かせ(なにか気に入らないことがあったんだろうか)つむじ風のように去って行ってしまった。

仮面で顔を隠し、隠された本能を解き放つのが、この謝肉祭の流儀。
けれども、いつでも自然体の彼女は、なんの気取りもなく、純粋にこの祭りを楽しんでいったようだ。

――尋ね人はまだ現れない。



さあて、僕もそろそろ現実に戻ろうか。
ヴェネツィアを発つ前に、教会前の占い師に一枚タロットを引かせてもらった。
出たカードは、『月』

僕はまだまだ惑わされるということか。

− 謝肉祭の街角の風景より −

僕の絵には万色の色彩があると 人は言う
ただひとつ 僕が恋うても再現できない色があるのに

僕の絵には生気が感じられないと 人は言う
描き手自身が 生に執着してないからか

君と出会って
生命力溢れる美しさを知った
どんな絵の具でも現せない色の存在を知った
人と別れるのが寂しいと知った
生きていく その尊さを知った

ああ 僕の愛しい君よ
君の生きるこの世界は 君という生命を包むために深く息づきだした
もう僕の筆では表すことはできない

ああ 愛しい紫の君よ来年もこの謝肉祭で あなたと会えるなら
この秘密の街角で 素顔を知らない仮面をつけて
燃えるような夕日を贈ろう